必要以上にプロセスが尊重されるのは疑問だ
昨今のデジタル映像作品などを観ていて思うのは、明らかにアナログ技法の面倒臭さが尊重され過ぎているという点。
今日観たなかでは DIGITAL DJ にて紹介されていた「体中に歌詞を書きなぐっていくPV — Come On Up To The House」というビデオ。他にも今年は、家の壁面に描いては消し描いては消しという工程で制作されたアニメーションなども観た(URL失念)。
この類いの作品で感服するのは「よくもこの面倒な作業をやり遂げたものだ」という点のみ。もちろんそこも作品の魅力として否定されるべきではないのだが、その作品における表現手法として最適だったか、そもそも作品として優れているかどうかの議論は放置されがちだ。
デジタルアートの分野においてはフルCGアニメなどに真新しさがなくなった時点で、アナログ技法に評価が集まりやすいという揺り戻しがあるのも当然だろう。しかし単にポスプロ段階での編集機やエフェクタとしてまでコンピュータの位置づけが後退してしまっては、デジタル技術を駆使した表現と呼ぶには程遠い。ここ数年でデジタルアート系のイベントにいくつか参加し、最も大きく感じた違和感はそれだった。(そもそもアートの世界にデジタルだのアナログだの分離する必要性はないのかもしれないが)
体に歌詞を書いて撮影し、石鹸で洗ってまた書いて… そんな手間のかかる作業よりも、CGなどを使ったほうが手早くスッキリまとめられたのではないか?そのほうが、酔いそうになるほどの画面のブレもなく、より多くの人に愛してもらえる作品になったのではないか?などと考えてしまう。
参考作品:Björk — Hidden Place
ところが結果よりもプロセスを評価されると、作家の拠り所はそこになってしまう。「目的と手段を取り違える」とはよく言うが、まさに技法そのものが目的になっていく。面倒で誰もやらなさそうなことを「ユニークさ」と取り違えてしまえば、さらにそれは加速する。
これが許されるデジタルアートという世界は全く不思議だ。アーティストをビジネスマンに置換してみると面白い。パワポ資料を作成するために、紙プリントの写真をハサミで切り抜き、カーボン式の伝票をもとに方眼紙にグラフを描き上げ、レタリングシートで見出し文字などを作り、それらをページごとにA4用紙に貼付けてレイアウトし、コンピュータでスキャンしてようやくパワポのスライドショーにペーストされる。そんなことしてたら、クビにはならないにしても上司に改善を迫られること必至だ。
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投稿者 愛場大介(Daisuke AIBA / Jetdaisuke) : 2007年12月31日 02:53