SNSを外から退いた目で眺めてみる重要性
前回の「ミクシィディバイド、SNSディバイドという憂鬱」という記事からの続き。
まずは、こちらの方でコメントをつけて下さったドギー本澤さんのブログより「mixi(ミクシィ)の外側で哀を叫ぶ」というエントリーを紹介しておこう。
ドギー本澤さんは現在「ミクシィ」「GREE」「キヌガサ」といった所謂SNSには参加されていない。その本澤さんがSNSについて真剣に語っている。現在、ネットで検索できるSNSについての記事は、ほとんどSNS参加者によるものだが、参加する前にここまで言及してしまうという点では非常に貴重だと感じる。以下、気になる点の引用
物売り業者が高い金を出してでも買い取ろうとする「友達つながり名簿」を自らせっせとネット上に公開していることになる。「私の友達は、この人とこの人とこの人ですよー。」「ダイエットに興味あるのは、この人とこの人とこの人ですよー。」なんてことを大ばらしにしてるわけだ
僕からしてみれば、『僕たちはSNSを自ら楽しんでやってる。そこでのビジネスの可能性や、マーケティングへの応用も皆で一緒に考えてきたよね?』という気持ちがある。SNSの運営側ではなくて、一参加者にも関わらずそういう意識はある。これが微塵も無いSNSヘヴィーユーザーは少ないのではないか?とも思う。であればこそ、mixi版 無敵会議なるものも成立し得るのだ。
これに加えてBRUTAS誌での、イー・マーキュリー(mixi運営母体)笠原社長の「僕も一員です」的な発言によって、
●首謀者なき犯行グループ
●参加者全員が共犯者
●しかもストックホルム症候群
といった摩訶不思議な関係になっていることが見える。
("犯行"という言葉自体の聞こえは良くないが、招待されない者に疎外感を与えているという意味では、的確な言葉選びだと思って使わせていただく)
そしてここに来て、SNSに招待されないという疎外感を味わうだけではなくなった。映画「オーシャンズ12」のスペシャルコンテンツのページでは、mixiに参加していなければアクセスできないという、なんとも不条理な事態が起こっている。オーシャンズ12に興味はあっても、mixiに参加してないという理由だけで情報を得られなくなっているのだ!
これが新しい広告モデルとして面白いと感じられるのは、僕がmixiに参加している余裕からだろう。もちろんプレゼント特典への応募もちゃっかり済ませた。しかし、mixiに招待してもらえない者にとっては、またひとつ大きな溝が生まれた、と感じるに違いない。ほど良いシニカルさの「出会わない系サイト lonely」さえも、笑えないジョークかもしれない。プロ野球に参入させてもらえなかった某氏も同じ気分なのだろうか。
再びドギー本澤さんからの引用
自分たちは選ばれし者だから、このコミュニティに出入りできる。お前たちは来なくていい。という「選民思想」「排他主義」を快くくすぐるサービスと言えるのではないか?
そう映るのも仕方ないし、それがあるからこそ、参加者の優越感も満たされるというものだ。が、小林悠君がmixi500万人飽和説を信じてると書いている(その説のネタ元は不明)。このまま参加者が増え続け飽和したとき、参加しているという優越感は意味を成さなくなり、選民思想や排他主義とは別種の参加意義のみになる。(ここでは、何人で飽和しようと関係ない。飽和する点があるということが重要だ)
参加者数が飽和した時点で、先述のオーシャンズ12のような、優越感を煽って牽引するような手法も無効化する。例えるなら「選挙権を得るには、まず日本国籍を取得して下さい」と、あえて"日本国民"に通達するような事になるからだ。こうなっては、限定商品という名の大量生産品と変わらない。そういう意味ではオーシャンズ12の手法は、飽和に達するまでの過渡期でのみ有効な手法とも思える。
しかし、飽和せずとも既に20万を遥かに超える人々が参加しているわけで、そこで参加しているという優越感に浸るのもなかなか難しい話でもある(笑)ずいぶん以前になるが、ミュージシャンの松前公高さんがmixiを指して「招待制の秘密倶楽部」と仰ってた。まだ参加者の少なかった当時は、言い得て妙だとも思えたのだが、今となってはそういった印象は微塵も感じられない。もちろんそれは既に参加している者の感想であって、外から見れば依然、招待制の秘密倶楽部であることには違いない。
次回「口コミと遺言と」へつづく
投稿者 愛場大介(Daisuke AIBA / Jetdaisuke) : 2004年12月28日 08:40