「村上春樹っぽい」で感じること
以下のような文章がはてブされ、コメント欄に書かれた「村上春樹」っぽいというのを目にすると、僕が感じるのはいつも同じこと。
▼元彼女と旅行してきた
▼はてなブックマーク — 元彼女と旅行してきた
▼元彼と旅行してきた
「今でもカミーユって名前嫌い?」との問いに「好きさ、自分の名前だもの」と答えられてしまったフォウと似たような気持ちにさせられる。
僕は何度か長編小説の執筆に挑戦して、そして毎回挫折してきた。
なぜ挫折するかといえば、書き上がったものが「村上春樹っぽい」ことこの上ないからだ。
村上春樹のカタルシスは絶対的で、秒速30万キロメートルとか摂氏マイナス273度と同等だ。そこに至るには「村上春樹っぽい」ことしか方法がないように思える。
意識的にそうするつもりはなくても、または意識的にそれを避けてみても、やはり行き着くのは「村上春樹っぽい」のだから、我ながら才能のなさに落胆する。
村上春樹には知り得ない、僕の実体験に基づくエピソードを練っても、出来損ないの加納クレタが生まれるだけだったりするのだ。
つまり村上春樹の小説はアカシックレコード的に僕の人生を描いているのだと思う。
昔そんなことを原田くんやいしたにさんに話したら、「ああ」と納得してくれたので、たぶん同じように感じてる人は沢山いるのではなかろうか。
とかボヤキながら今夜は住太陽さんの受賞した処女作「他人の垢」を読んでみようと思う。
コピペしてPDF化してiPod touchに入れてジョナサンでコーヒー飲みながら読むよ。
ところでiPod touchってPDF読み込めたっけ?そんな読書の秋。
投稿者 愛場大介(Daisuke AIBA / Jetdaisuke) : 2007年10月 7日 23:39