電子書籍はリッチ化とマイクロ化の両方が必要
話は90年代末期にまでさかのぼる。
ノストラダムスの予言が当たるかテポドンに当たるかという二択を迫られているとき、僕はシコシコと某文庫のPDF化やボイジャーT-Time(ティータイム)化に勤しんでいた。なかには官能小説もあったりして文字通りシコシコである(謎)またそれ以前にはCD-ROMやビデオCDのオーサリングなどにも携わっていた。
現在、iPad発売とiBooksの開始により電子書籍に一気に注目が集まっているが、いま騒いでいるひとたちは「iPadを使うためのコンテンツ消費」という逆転の発想を気付かずやっているように見える。其処此処で「祖母が青空文庫をiPadで読み始めた」などとツイートされてるのはまさにそれ。
僕は冒頭に書いたような過去の仕事経験もあって、ふたたび「別フォーマットにコンバートする時代」が来るんだろうなと感じてるだけだ。でも、そこを過ぎてからしか本当の意味で世界が変わることはない。
レーザーディスクで所有していたタイトルを、DVD時代にも買い直して、さらにはブルーレイでも再購入しているという人はどれほどいるだろう?メディアコンバートだけで売れ行きが良くなったという話は聞いたことがない。これは書籍にもあてはまるだろう。雑誌はともかく、小説などは既存のタイトルを電子化したところで大きく売上げが伸びるとは思えない。
そこで「みたいもん!」に書かれていたコンテンツのマイクロ化のくだりはぜひ一読されたし。
▼iPadは「CD-ROM」の再定義に留まるべきではない
そしてまた昔話をするが2005年に初めて、動画再生に対応したiPod 5Gが発売された。これはビデオiPodとも呼ばれた(iPadではなくiPodだ)。当時、自宅SOHOのフリーランサーだった僕だが、このビデオiPodを持って、用もないのに満員電車などに乗りこみ、iPodに向いたコンテンツはいかなるものかと思いを巡らせていた。ビデオポッドキャストが通勤電車でのキラーコンテンツになると目されていたからだ。
映画のような長尺の動画が必要でないことはすぐに分かった。平均的な通勤時間がドアtoドアで一時間あるとしても、実際に電車に乗っている時間はせいぜいその3/4くらいだろう。乗り換えもあるならさらに乗車時間は減る。新幹線でもない限り映画観賞に集中するのはちょっと難しい。
結果として生まれてきたのが、1分足らずとごく短い構成の動画シリーズ「なにわともあれ」であり、ブログに最適化した動画のダイエット術ともいえるジェットカットという編集技法であり、30分で描くべき世界を30秒に要約しあとはリスナーの創造力に委ねる「星の光の鼻ピアス」であったりする。これらは動画や音声というヘヴィでリッチなものをいかにマイクロ化につなげるかというのが発想の原点にある(連続するストーリーの小分け等をマイクロコンテンツと呼ぶかどうかはアレとして)。
それぞれが当時の状況下でそれなりの成果を残しているので、マイクロコンテンツという方向が間違いないことは体感的に理解できている。特に「なにわともあれ」に関してはiTunesで何度も一位に輝いているし、ジェットカットは現在でもビデオブログの編集法として参考にしてくれる方々が大勢いる。以下はMXで放送されたもの。ご存知ない方のため、参考まで。
いまだに「映画撮ったりしないんですか?」とも聞かれることはあるが、長期間かけて大博打をうつよりは、マイクロコンテンツを日々投げかけて軌道修正していくほうが、このドッグイヤーには向いている。(ビデオブログについては昔は厳密に「90秒程度の尺」と決めていたことがあり、それを超えるなら複数本に分けようとも言っていた。)
ところでiPad発売日にツイッターで評判だった京極夏彦「死ねばいいのに」を購入してみた。
▼京極夏彦 死ねばいいのに
これは先述したコンバート型のコンテンツであり、紙のつくりをそのままiPadに持ち込んでいる。これでは通勤電車などではいくら頑張っても読み進められない。勘違いのないように断っておくが、京極氏の作品の質が良くないということではない、とりたてて文体が読みにくいわけでもない。従来の小説という枠組がiPadには向かないように感じるだけなのだ。これは紙のための小説フォーマットを踏襲しているからだ。
朝の満員電車に乗ってなるべく人とぶつからないよう体をジワジワと移動し、一息ついたところで鞄からiPadを取り出し「死ねばいいのに」Appを起動する。右手は吊革、左手でiPadを持つ。電車が揺れるたびに文字を追う目線が逸れる。iPad自体の重さで文章に集中できなくなる。
結局10分ちょっとの乗車で3ページしか読めなかった。帰りの電車では運良く座れたが、それならそれでもっと出来ることがあると、音楽シーケンサー(iSequence)を起動し曲を打ち込んだ。そして電車を降りてからモスバーガーに入ってテイクアウトの注文をし、その待ち時間にメールチェックなどをした後、また3ページだけ読めた。
結局わかったのはiPad小説は「3ページあればきりがいい」ということ(笑)
このアプリの3ページの文字数はといえば、30×11行くらいなので330文字詰の原稿用紙か。純粋な文字数でいえばもっと少ない。その三分の一から半分くらいになるかもしれない。
おっとそれではまるでツイッター小説のような文字数ではないか(笑)
以前、ある作家さんを交えた酒宴で、その作家さんがあるケータイ小説作品を指して「ケータイで小説なんて」と蔑んでいたのを思い出す。小説というものが紙の本だけを前提にしているならそう言いたくなる気持ちも分かる。しかし、メディアやデバイスが変われば、コンテンツと配信の形態が変わるのも当然あってしかるべきだし、それがApple製品のようにライフスタイルを根底から変えてしまうものなら抗えないことに思える。
ただそうしたマイクロ化と同時にリッチ化も必要に思う。目減りした分を厚みで補うのだ。十両編成の新幹線が無理なら、二階建て車両で五両編成にすればいい。
前出の「死ねばいいのに」には、予告編のような動画も含まれていた。いかにもおまけ程度の動画だったのだが、実はここをもうちょっと頑張っても良かったのではないかと思う。そのうえで各章ごとに販売(それこそマイクロ化)してもいいんじゃないか?
私事だがこの一年半ほどレビュー動画サイトの立ち上げと運営に携わっている。動画CGMの体でレビューを投稿してもらうのだが、書籍ジャンルが少し弱い。書評を動画でやるというのもおかしな感じがする。おそらくはフジテレビで昔放送していた「文學ト云フ事」がベストなあり方だろう。文学の予告編だ。
# 本筋とは関係ないがこれで緒川たまきのファンになった方も多いはず(笑)
そして実際に本を動画(予告編)で紹介するブックトレイラーという事業をやる会社もある。たとえば以下のようなものを制作している。
ブックトレイラーが販促として成功しているかは知らないが、「文學ト云フ事」のほうには様々なヒントがある。まず、リッチ化とスリム化を両立させている。映像化に際して二次創作やリミックスの要素もある。そしてそれ自体を"本編にもひけをとらない"コンテンツとして昇華させている凄さ。
こうなるとただの予告編ではなくこれもまた本編である。
文字で読めば一日かかる物語を90分に凝縮したのが映画。そこからさらにスリム化をすすめたのが「文學ト云フ事」の体裁。映画というルーズな時間制限から、30分番組という枠に落とし込んだ結果だ。媒体が変わるとコンテンツも再構築する必要があるというのはまさにこういうことなのだ。(ただし「文學ト云フ事」は大前提が原作ありきなので、あくまでリッチマイクロコンテンツに取り組む際のヒントとして挙げている。)
ここで前出の「星の光の鼻ピアス」に話を戻す。
この作品は、毎週水曜19時から30分番組として2クールにわたり放送されていた魔法少女テレビアニメだ。しかし、正しくはそんなものなど存在していない。そういう設定が存在するだけである。実際に配信されたのは毎週わずか30秒程度の音声ポッドキャストなのだ。
これについてはマークアップエンジニアとして有名な神森勉さんによる言及があるので紹介する。
▼コラム・雑感 「星の光の鼻ピアス(通称:ホシハナ)」見たい/T-STUDIO
本当に予告編なので、聞けば聞くほど「ヲイ、ヲイ、でどうなっちゃうのよ?」って感じになってしまって、すっかりはまっちゃってます。で、勝手に頭の中でストーリーを作って妄想し始めちゃうから困ったものです。
先述したが、本当にリスナーに投げてしまっている。30秒の尺できっかけだけを送り、あとは各自の妄想という広大な世界に展開する。30分のテレビアニメ本編をスリム化して、ポッドキャストというマイクロコンテンツに落としこむひとつの方法である。
次週予告の音声だけとなったことで、まるでリッチ化とは逆行したようにも見えるが実際にはそうではない。なぜならこれの本質は「ジャポニカ学習帳にオリジナル漫画のキャラを描きためている小学生の妄想」を具現化したということ。それに尽きる。(もともと存在しない妄想なのだから、具現化するのはリッチ化といえよう。それでいてテレビアニメとしてはかなりのダイエットだ。)
ま、手法の是非はともかく、iPad書籍や電子書籍というものを制作するにあたっては、この考え方はとても重要ではないかと思う。
小説家は文章を書くが、そこに記されるのはストーリーとそれにまつわる描写だ。だからこそ映画化されれば文字による表現が消え失せ、ストーリーが軸として残る。では小説の本質とは一体なんなのか?文章であることなのか?それとも物語性なのか。そしてiPadで読む(または観賞する)に相応しい小説の形態とはどんなものか?
<余談>
逆の順で発想していくと、紙の小説フォーマットはiPadに向かないが、しっくり来るフォーマットは既にあるかもしれない。すぐ実現できる部類としては、フォトストーリーブックの類いやわたせせいぞう ハートカクテルのTV版などは個人的にとても相性の良さを感じる。方向性としては、以下のふたつの一風変わった書籍にも大きなヒントが隠されているような気がする。
静止画が動き出す絵本 MAGIC MOVING IMAGES
</余談>
スタートレック・ヴォイジャーの世界では「ホロノベル」というものがある。これは読み物ではなく、ホログラムで体験/参加する仮想現実のことを指す。しかし「ホロノベル」というだけあって作者たちは「書く」という表現を使う。これこそ、この先我々が意識を変えていくべきところだと思う。
書く、そしてパブリッシュするということが意味するものは今後、電子書籍によってガラっと変わってしまうということだ。
具体的にはインタラクティブとマルチメディアのるつぼにあらゆるコンテンツが投げ入れられたということ。書籍は紙に印刷された文章と絵図のみという壁を取払い、音楽や映画やゲームと融合する。読むことは、聴くことや観ること触れることと同義になっていく。そしてすべてはApp化される、もしくはそれに準じたものになる。
アップグレードや自動更新があるかもしれない。読者が次週のストーリーに影響を及ぼしかねないし、または積極的に参加してくるかもしれない。第一章が提示されると、その後の章がほかの作家たちによってパラレルワールド的にいくつも展開されるかもしれない。そんなソーシャルアプリケーションを「書く」ひとのことを「作家」と呼ぶようになるかもしれない。
投稿者 愛場大介(Daisuke AIBA / Jetdaisuke) : 2010年6月 2日 16:54
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トラックバック時刻: 2010年6月 9日 13:30