プルトニウムを怖がりたい人に何を言っても無意味
ツイッターを見てると「震災支援:プルトニウムが怖い方へ: 粂 和彦のメモログ」というブログ記事が流行ってるようなので読んでみました。
まあ騒いでる人たちに対して冷静にそう言いたくなるのも分かるんですが、この場合なにを説いたところで無意味だと思うのです。なぜなら不安になる人の多くは不安がりたくてやってるわけです。
3月15日はじめて放射性物質が東京まで飛んできた日、僕が街角で放射能への言及をはじめて耳にしたのは近所の薬局でした。どこにでもいそうな普通のおばあちゃんから。
リンク:おばあちゃんの口から放射能という言葉
どこかしらイベントのように感じるんですよね、非日常がやってきたというお祭り感覚のようなもの。まるでそれを楽しんでいるかのようにも。
たとえば僕がiPhoneでギターのアプリなんかを見せたりすると「すげぇー」とか「おもしろいな」とかだけでなくて「本物のギターでいいじゃん」という意見も少なからずあります。そんなのは当り前です。本物のギターこそがギターであって、わざわざハイテクの粋を集めて本物より演奏しにくいギター風アプリで演奏するなど馬鹿げています。
が、その馬鹿げたことを楽しんでやってるのですから「本物のギターでいいじゃん」という真っ当な意見のほうが実際には馬鹿げているのです。
パニックで買物に走る人だって同じで、非日常のなかに何か祭りに似たような血の騒ぎを感じていたのではないでしょうか。
だから放射能の恐怖で不安になりたい人に、正しい知識や情報を与えようという試みも、同じく無駄なことではないかと思うのです。正確さを求めているわけではないですからね。むしろ見えない恐怖を楽しんでいるのでしょう。
ある種の人々には、これはおそらく震災というよりも国を挙げての大アトラクションのようにとらえられてるのではないかと考えています。自覚の有無に関わらず。
自らは被災せずただテレビにかじり付いていた方々にとって、そういった意味も持ちあわせたイベントであったことは確かだと思います。とても不謹慎な言い方になりますが、震災エンターテインメントであったことを否定できる人は少ないんじゃないでしょうか。
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投稿者 愛場大介(Daisuke AIBA / Jetdaisuke) : 2011年3月31日 11:39